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五浦海岸 (H28.9.27)


五浦海岸



五浦海岸



五浦海岸

五浦海岸(いづらかいがん)は、茨城県北茨木市大津町五浦にある海岸です。

大小の入り江、大小の磯、高さ約50mの断崖絶壁など、波による浸食で形成された地形が続いています。

「五浦海岸」は文字通り、五つの浦(入り江)があり、地名の由来となっているのです。南から順に小五浦・大五浦・椿磯・中磯・端磯と名付けられています。五つの浦が開け、太平洋の白波が砕け散るその雄大な姿は訪れる人々に深い感銘を与え、「日本の渚百選」「日本の音風景百選」にも選ばれています。

また、岡倉天心が愛した地としても知られています。


五浦海岸の成り立ち

五浦海岸独特の美しい景観は、はじめからあったわけではありません。五浦の地形は太平洋の荒波と五浦海岸の特徴的な地質によって生まれました。

五浦海岸は岩石海岸です。硬い岩石にも削られやすい岩石とそうでない岩石があります。五浦海岸は、削られやすく脆い砂や泥が固まった岩石と、硬く削られにくい石灰質の岩石から出来ています。

五浦海岸には毎日太平洋の荒波が打ち寄せ、波の力で岩石は少しずつ少しずつ削られていきます。このとき、硬い岩石はあまり削られずに残ります。


五浦海岸



大津港駅

また、海岸沿いに出来る崖を海食崖と言います。

波の浸食によって岩石海岸の海面の高さにくぼんだ地形が出来、それが深くなると、上部の岩が重力に耐え切れずに落ちて海食崖ができます。

そのため崖の下には大きな岩のブロックが見られます。



大津港駅から真っ直ぐに伸びる道路 ここから右カーブです


JR常磐線大津港駅から東方向に真っ直ぐに伸びた道路を進み、小高い丘を越えて右に少しカーブしながら道なりに2kmほど進むと海岸線に出ます。

海岸に出たすぐ左手に「忘れじ平和の碑」があります。

この辺一帯は、昭和19年11月から20年4月の間、アメリカ本土に向けて風船爆弾を放流させた場所です。

背後の低い丘と丘にはさまれ、現在は田んぼに復元されているいくつもの沢に、放球台や兵舎、倉庫、水素タンクなどがあったとのことで、記念碑が建立されています。


忘れじ平和の碑



忘れじ平和の碑の傍の海岸 五浦海岸の北側です



忘れじ平和の碑の傍の海岸



亀の尾層?

「忘れじ平和の碑」の傍の階段を降りて、少し進むと「亀の尾層」があります。

この地層は縞模様をしています。灰色の触るとザラザラした層と、小麦粉を固めたような白い層。この2種類の層が何層も繰り返し重なっています。

この地層は大昔に深い海の中で、細かい砂や泥がゆっくりとたまってできました。

残念ながら満潮時のためか、階段を降りた砂浜は波で洗われており、「亀の尾層」に近づくことはできませんでした。



茨城県天心記念五浦美術館


「忘れじ平和の碑」の南側の丘の上に「茨城県天心記念五浦美術館」があります。

天心記念五浦美術館は、「日本の渚百選」「日本の音風景百選」に選定されている五浦海岸の大小の入江と、美しい松林を望むことできる景勝地に建っています。


茨城県天心記念五浦美術館



茨城県天心記念五浦美術館からの展望



茨城県天心記念五浦美術館からの展望 左手前が忘れじ平和の碑

五浦は、明治39年(1906年)に日本美術院第一部(絵画)が移転し、岡倉天心や五浦の作家たちが活躍した歴史的な地でもあります。

天心記念五浦美術館は岡倉天心や横山大観をはじめとする五浦を愛でた作家たちの業績を顕彰するとともに、優れた作品を鑑賞できる美術館として平成9年(1997年)に開館しました。



五浦海岸・中磯



五浦海岸・中磯


天心記念五浦美術館から五浦美術の里公園を抜けた先にある階段を降りたところが「天心遺跡記念公園」です。

明治39年(1906)11月、岡倉天心は、東京谷中にあった日本美術院第一部を大津町五浦に移転し、椿浦の絶壁の上に研究所を建設しました。

研究所には天心の居室、並びに天心とともに五浦に移住した横山大観、菱田春草、 下村観山、木村武山の作画室、研究会員の作画室が設けられていました。

彼らは、近隣に住み、ここへ通い天心の指導を受け、画業に精進し、多くの代表作を生み出しました。


天心遺跡記念公園 日本美術研究所



五浦海岸・椿浦



五浦海岸・椿浦



天心遺跡記念公園

この場所は、天心遺跡記念公園として整備され、由緒にちなんだ筆塚や井戸なども作られています。

天心遺跡記念公園のある椿浦の絶壁も見事なものですが、海辺に降りる道がありませんので、上から眺めるだけでした。



岡倉天心の墓所


天心遺跡記念公園から南に500mほど進むと「岡倉天心の墓」があります。

大正2年(1913年)、50歳で亡くなった岡倉天心は、東京の染井墓地に埋葬されました。9月末、天心の辞世と伝えられる歌に込められた遺志を汲み、五浦の地に染井墓地と同じ土饅頭型の簡素な丸い墓を造り、分骨が行われました。

我逝かば 花な手向けそ浜千鳥
呼びかふ声を印にて
落葉に深く埋めてよ
十二万年明月の夜
弔ひ来ん人を松の影



岡倉天心の墓所



水戸黄門の井戸

岡倉天心の墓」の傍のベンチのある公園の奥の階段を下りて岩がちな海岸に出ると、そこは九面層です。

潮の引いているときには、ぼこぼことした岩の様子をよく見ることができます。硬い部分があまり削れないのでこのような姿をしています。

この岩の中からは、多くの貝化石や海底に住む生物の巣穴の化石がよく見られます。またムカシオオホホジロザメの歯の化石も発見されました。

今回は残念ながらパスしました。



茨城大学五浦美術文化研究所 長屋門



天心記念館



岡倉天心像


岡倉天心の墓」から少し進むと「茨城大学五浦美術文化研究所」です。

茨城大学五浦美術文化研究所は、天心偉蹟顕彰会の会長横山大観から、天心遺跡(旧天心邸・六角堂・長屋門)の寄贈の申し出を受けて昭和30年(1955年)に設立されました。



天心邸



天心邸庭園



天心邸

近代日本美術の発展や文化財保護に多大な功績を残した岡倉天心は、明治31年(1898年)に東京美術学校校長を辞職後、日本美術院を設立し、明治36年(1903年)に五浦に転居しました。

その後1年間のボストン滞在から戻った天心は邸宅の大改造に着手しました。



六角堂



六角堂


天心邸の敷地は、なだらかな海へと傾斜する固い岩盤上にあり、一部はダイナマイトを用いて造成されました。

当時の建物のうち、母屋の中心部分や長屋門は現在も残されています。

眼前に広がる太平洋(大五浦・小五浦)とそこに点在する岩礁も庭園の要素として取り込まれており、すばらしい風致景観を成しています。


六角堂



天心邸からの五浦海岸



天心邸からの五浦海岸



天心邸からの五浦海岸

六角堂は明治38年(1905年)に岡倉天心自ら設計したもので、「観瀾亭」ともいわれ、杜甫の草堂、仏堂、茶室を兼ね備え、朱塗りの外壁と屋根に宝珠を装った六角形の建物です。

天心が読書と思索にふけった場所といわれています。緑の松林を背後に、前には太平洋の白波が砕け散るその雄大な姿は、すばらしい景観です。

東日本大震災により流失しましたが、創建当時の姿に再建されました。



五浦岬公園



五浦岬公園からの展望


茨城大学五浦美術文化研究所から500mほど南に進むと「大津岬灯台」があり、その手前を左折すると「五浦岬公園」です。

五浦岬公園
から太平洋越しに臨む朱色の六角堂と岩礁に砕け散る波、緑の松林が織りなす風景は、一枚の絵画のようです。


五浦岬公園の六角堂



五浦岬公園からの展望



大津岬灯台



五浦岬公園の展望台

太平洋に突き出す大津岬の突端にあり、名勝・五浦海岸を望むベストスポットです。

公園内には散策路が整備されており、先端近くには展望塔が設置されています。

また、公園内には映画『天心』のロケセットも設置されています。



大津漁港


五浦岬公園から大津岬灯台に戻り、道なりに1.5kmほど進むと「大津漁港」です。

大津漁港は茨城県内
随一の施網漁港として年間数万トンの漁獲量を誇ります。港湾の東辺に松ヶ崎の美しい景色が広がり、朝夕の出入船の情景も素晴らしいものがあるとのことです。

幕末に大津浜(現在の大津港)に異人が上陸したとの記述が残されています。これにより徳川斉昭は海防の重要性を認識したとも伝えられています。


漁業歴史資料館



漁業歴史資料館

大津漁港にある、漁業歴史資料館「よう・そろー」では、海の伝統文化や漁業の紹介、また、市の魚「あんこう」の種類・生態・調理法などを展示しています。

また、大津漁港の食堂では北茨城の旬の味覚が楽しむことができます。

大津漁港から北方向に2Kmほど進むと、大津港駅です。


      風来坊


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