散策スポット目次
HOME
前ページ
次ページ
高麗川駅前
八高線上野台踏切
JR東日本駅からハイキングのイベント「高麗郡建郡1300年記念・廃線と日高市の産業・歴史を訪ねる」に参加しました。 コースの概要は次のとおりです。(約12km) 高麗川駅→加藤洋品店(受付)→ぽっぽ道→太平洋セメント埼玉工場→彩の国醤遊王国→長澤酒造→高麗家住宅→高麗神社→聖天院→高麗川駅 約3時間10分、1万6千歩の散策でした。
ポッポ道
高麗川駅近くの加藤洋品店で受付を済ませ、高麗川駅に戻り八高線に沿って北方向に500mほど進んだ上野台踏切を渡って100mほど進むと「ポッポ道」の入口です。 「ぽっぽ道」は、遊歩道の愛称です。「ポッポ道」は、昭和30年から太平洋セメント埼玉工場の操業に伴い、セメント原材料及び製品を運搬していた側線敷です。
昭和58年(1983年)に主原料である石灰石を搬送する地下ベルトコンベアーが稼働し、平成11年(1999年)にセメント出荷用の鉄道輸送が廃止され残されたものです。 平成21年3月に、太平洋セメントから側線敷き用地が寄付され、遊歩道として整備し、鉄道が活躍していた当時の趣を残したものです。 このため、レールや遮断機などが残されています。
太平洋セメント埼玉工場
「ポッポ道」として整備されている遊歩道の終点の左前方が「太平洋セメント埼玉工場」です。 「太平洋セメント埼玉工場」は、1999年の操業開始です。当時は、高麗川駅から延びる専用線が、主原料の石灰石やセメントの運搬を支えていました。
日高市役所
ひだかアリーナ
ここを左折
「太平洋セメント埼玉工場」のすぐ近くに、日高市役所や日高市文化体育館(ひだかアリーナ)があります。 日高市役所と日高市文化体育館の間の道路を北東方向に800mほど進み、蕎麦屋の手前を左折して800mほど進んだ右手が「彩の国醤遊王国」です。
彩の国醤遊王国
「彩の国醤遊王国」は、老舗醤油蔵「弓削田醤油」の工場に併設する、醤油のテーマパークです。 工場見学やもろみ絞り体験をすることができます。 醤油グルメも販売されています。
長澤酒造
「彩の国醤遊王国」から南西方向に2kmほど進んだところが「長澤酒造」です。 「長澤酒造」は弘化元年(1844年)創業の170年の歴史をもつ酒蔵です。 芳醇な香りが特徴の高麗川の地酒をはじめ、「神社エール」などのオリジナル商品も製造しているとのことです。
高麗神社
「長澤酒造」から高麗川の西側の道を南方向に2kmほど進むと「高麗神社」と「高麗家住宅」があります。 紀元前37年頃から668年まで、中国北東部から朝鮮半島にかけて高句麗という国が栄えていました。 長い期間の中で多くの高句麗人が日本に渡り、渡来人として暮らすようになりました。日本ではこの高句麗人のことを高麗人(こまびと)と呼びました
716年、大和朝廷は律令制のもと、関東一円に住んでいた高麗人を集め、武蔵野に高麗郡を設置しました。 当初、高麗郡は日高市と飯能市を中心に置かれました。その後、中世から江戸時代を経て郡域が次第に拡大し、鶴ヶ島市全域、入間市、狭山市、川越市の一部まで含むようになりました。 高麗郡は1200年近くも続きましたが、明治29年(1896年)入間郡に編入されその名を消しました。現在でも古い石碑や道しるべなどには「高麗郡」との文字が残っています。
高麗郡の設置にあわせ、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の各地から、1799人の高麗人が移住してきました。そして、高句麗王族の高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)がリーダーになりました。 彼らは郡役所を建設し、優れた技術と努力で未開の地だった高麗郡を開拓しました。道路を整備し、山林を農地に変え、生活の基盤を整えました。さらに新しい産業を興したと考えられます。 若光が没した後、郡民がその徳を偲び、高麗郡の守護神として御霊を祀りました。これが高麗神社の創建です。
高麗家住宅
創建以来、若光直系の子孫が代々の神主を務めており、現在の宮司は高麗家当主60代目です。 平成28年(2016年)は、武蔵国に高麗郡が置かれてから1300年を迎えます。 日高市は、先人がこの土地に築き上げてきた大切な歴史や文化に感謝を表し、未来に引き継ぐため「高麗郡建設1300年記念事業」を推進しています。
「高麗神社」の隣が「高麗家住宅」です。 高麗家住宅は高麗神社の神職を代々勤めてきた高麗氏の住宅です。 建物の規模は、桁行14.8m、梁間9.5mです。屋根は入母屋造りで、茅で葺いています。間取りは5室と土間からなっています。
建築年代は高麗家に伝わる文久3年(1863年)の絵図画に、慶長年間(1596〜1615年)に建てられたとの伝えがあると記されています。 昭和51年〜52年に行われた解体修理でも棟札などの建築年代を示す資料は得られていませんが、建築様式や構造手法から、17世紀後半頃と推定されています。
聖天院
高麗神社から徒歩5分程度のところに聖天院があります。 聖天院は国難を避けて日本に渡来し、武蔵国に移された高句麗人1799人の首長高麗王若光を初めとする一族の菩提寺として、僧勝楽と若光の子、若光の孫によって、奈良時代の天平勝宝3年(751年)に創建されました。 本尊には王若光が守護仏として本国から将来した聖天尊を祀りました。 このため聖天院勝楽寺と称しています。
高句麗王若光
僧勝楽により開基、聖雲と弘仁により落成され、本尊には王若光が守護仏として本国から将来した聖天尊を祀りました。このため聖天院勝楽寺と称しています。 開基より約600年後の貞和年間(1345年)に法相宗を真言宗に改め、以後は高麗郡の本寺として、高麗王をはじめ郡民の菩提所として今日に至っています。 1832年建立といわれる総欅造りの重厚な山門が見事です。
聖天院からの展望
聖天院山門
聖天院の山腹に聳え立つ慰霊塔は、第2次世界大戦の不幸な歴史の中で亡くなられた沢山の無縁の同胞達に、昔渡来した高句麗の同胞達と共に永遠の安眠を与え供養するために、建立されたものです。 塔は日本との関係36年間を象徴する36段階で、高さ18m、石塔としては日本最大です。
高麗川
聖天院から東の方向に2kmほど進むと高麗川駅です。 風来坊