散策スポット:中部

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島田散策 (H28.3.28&29.3.20)


蓬莱橋



蓬莱橋



蓬莱橋から

静岡県島田市を散策しました。

最初に蓬莱橋を訪ねました。

蓬莱橋は「世界一長い木造歩道橋」としてギネス認定されている、長さ897.4mの橋です。

明治2年(1869年)7月、徳川慶喜を警護のため駿府に移り住んでいた幕臣たちがその役を解かれた後、生活のために大井川右岸の金谷原(現在の牧ノ原台地)の開拓を始め、茶を作り始めました。

当初は大変厳しい環境の中、苦労の連続でしたが、その甲斐があって順調に茶栽培が営まれるようになりました。



蓬莱橋から



蓬莱橋から


生活が安定するにしたがって、初倉(島田宿南部対岸の旧初倉村)の人々は、島田へ生活用品を買いに出かけるようになりました。

島田の人々も初倉に山林や原野の開墾のため出かけるようになり、大井川を小さな渡し船で渡らなければならず大変危険でした。

また、降雨により増水すれば船は運航できず、悩みが絶えませんでした。


正面山の手前が牧之原台地の茶畑



蓬莱橋



蓬莱橋



蓬莱橋

そこで、島田宿の開墾人総代たちは、時の静岡県令(現在の県知事)に橋を架ける願いを出し、これが許可され明治12年1月13日に蓬莱橋が完成しました。

通行料金は、開墾関係者以外は5厘を徴収し、開墾関係者は無償で往復させ、農業一途の使用としました。

「賃取り橋」の歴史は、これより始まったのです。

蓬莱橋は木製であるため、大井川の増水のたびに被害を受けてきたので、昭和40年4月のコンクリートの橋脚に取り替え、今日の姿となりました。


蓬莱橋は欄干が低く、そのほかに遮るものがないため、橋の上に立つと広々としていて気分爽快です。

逆に対岸までの途中に建物などの障害物が全くないため、遠近感の把握が難しく、1km先の対岸がそれほど遠くに感じられません。

対岸までは200〜300mといった感じですが、歩いても歩いてもなかなか対岸にたどりつかないといった感じになります。




大井神社



大井神社



大井神社

蓬莱橋の次に「大井神社」を訪ねました。

大井神社は、しばしば氾濫する大井川から土地を守り、子孫繁栄のため、建治2年(1276年)に建立されたと伝えられています。

川越しの安全を守る神として、近年では安産の神として信仰されています。



大井神社



大井神社


大井神社の大祭は「帯祭り」または「島田の帯祭り」と称されています。

元禄3年(1695年)に始まると伝えられ、現在は3年に1度(寅年・巳年・申年・亥年)の10月中旬の3日間に行われます。

帯祭りでは、特に最終日の神輿渡御神事の際の大名行列が知られています。

この行列は元禄絵巻さながらのもので、大奴が安産祈願の帯を木太刀に下げて練り歩くほか、疫病退散を願う鹿島踊り、子供が長唄に合わせて歌舞伎踊りを披露する屋台等が付きます。


大井神社



大井神社



大井神社



大井神社



大井神社

祭りの間、島田市の中心部は7つの街に分けられ、1〜5街では屋台を中心とした長唄祭り、6街では鹿島踊り、7街では大名行列と大奴の練り歩きが行われます。

この帯祭りは、日本三大奇祭の一つに数えられています。



大井川川越遺跡



大井川川越遺跡


大井神社の西1kmほどのところに、大井川川越遺跡、島田市博物館、島田市博物館分館があります。

大井川川越遺跡は、江戸時代の川越し制度を偲ぶことのできる街道です。

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠われた場所です。


大井川川越遺跡



大井川川越遺跡

江戸時代、旅人が大井川を渡るためには、人足に肩車をしてもらうか、輦台(れんだい)というみこしのような乗り物に乗り、担いでもらっていました。

その「川越し」の料金所(川会所)や、人足の待合所(番宿)などの風景を再現したのが、大井川川越遺跡です。

昭和41年(1966年)に国指定史跡に指定されています。



大井川川越遺跡


大井川川越遺跡



大井川川越遺跡



大井川川越遺跡


川越制度と川会所

江戸時代の初期に宿駅伝馬の制が定められ、街道整備が行われました。

しかしながら、大きな河川には橋がほとんどかけられず、旅人は船か徒歩で渡るほかありませんでした。

特に大井川は渡船も禁止され、流れも急なので不慣れな旅人が渡るには危険であったため、両岸では川越しの手助けを生業とする人々が現れました。

そして、街道の通行量の増加とともに渡渉の方法や料金などを統一する必要が生じ、元禄9年(1696年)に川越制度ができました。


大井川川越遺跡



島田市博物館



島田市博物館



島田市博物館



島田市博物館

その管理のために川庄屋の役職と、業務の拠点となる川会所がおかれました。最初の川庄屋は、島田代官の野田三郎左衛門から任命された橋爪助左衛門と塚本孫兵衛(如舟)の二人でした。

川会所には、川庄屋のもとに年行事、待川越、川越小頭などの役がおかれ、その日その日の水深を計り川越賃銭を定め、大名から庶民まですべての通行人に対する渡渉の割り振りや、諸荷物の配分など日々の運営をはかる仕事が行われました。

文献には見当たりませんが、川会所は川庄屋がおかれた元禄9年に建てられたと推定されています。



島田市博物館分館



島田市博物館分館


川越しは明治維新まで続けられていましたが、明治3年(1870年)に大井川の通船が許可されたことに伴い廃止されました。

現在の川会所の建物は安政3年(1856年)に建てられたもので、川越し制度廃止後は大井川通船の事務所や学校の校舎など様々に利用されその位置も転々としていました。

そして昭和41年(1966年)8月に島田宿大井川川越遺跡が国の指定を受けたのに伴い、昭和45年(1870年)8月、現在地に移築されました。

島田市博物館、島田市博物館分館には、川越し制度に関する資料が展示されています。


島田市博物館分館



大井川鉄道 新金谷駅



大井川鉄道 新金谷駅



大井川鉄道 新金谷駅

島田市は大井川によって2つに区分されており、島田市博物館の大井川の対岸が金谷地区です。

金谷宿は江戸から51里(約204km)、品川宿から数えて24番目の宿場として定められました。



大井川鉄道 新金谷駅



旧東海道石畳入口


金谷宿本町には、山田屋、佐塚屋、柏屋の三軒の本陣と脇本陣、問屋場、助郷会所等がありました。

金谷宿は大井川の右岸にあり、牧之原台地が迫る狭隘な場所ですが、増水で大井川の川越が禁止されると、江戸へ下る旅客が足止めされ、島田宿同様にさながら江戸のような賑わいを見せたとのことです。

現在はその面影はなく、本陣跡の立て札があるのみです。


石畳茶屋



石畳茶屋



石畳茶屋

金谷地区では大井川鐵道の「新金谷駅」を訪ねました。残念ながらSLは出発した後でしたが、いろいろな古い列車が並んでいました。

金谷駅から旧東海道を進んで行くと「石畳茶屋」があり、そこから先が「金谷坂石畳」です。



金谷坂石畳



金谷坂石畳


金谷坂は、急坂の上に粘土質であるため雨が降るたびに滑りやすく、大名行列や旅人は難儀しました。このため文久2〜3年(1862年〜63年)頃に、石畳が敷設されたと推測されています。

その後近代に入り道路地中に鉄道関係の通信線や電話線等が埋設され、さらには車が通れるようにコンクリート舗装され、石畳の面影をなくしてしまいましたが、平成3年(1991年)町おこしとして「平成の道普請・町民一人一石運動」が展開され71000個の山石を使い、430mの石畳が復元されました。


すべらず地蔵尊



すべらず地蔵尊

金谷坂の途中に町民有志が建立した「すべらず地蔵尊」があります。

旅人の足元を守ってきた「すべらない山石」にあやかって、「すべらず」「ころばず」進むようにと最近では多くの受験生や家内安全・商売繁盛の願掛け参拝者で賑わっているとのことです。

毎年1月には現地で合格祈願祭が行われます。



諏訪原城跡



諏訪原城跡


金谷坂石畳を登ってさらに500mほど進むと「諏訪原城跡」です。

諏訪原城は武田信玄が徳川領であった遠江攻略の出城として築城した城です。

城内に諏訪大明神を祀ったことからこの名がついたとされています。

武田氏と徳川氏の間で激しい攻防が繰り広げられましたが、天正3年(1575年)には落城して、徳川氏の城となりました。

徳川氏時代には「牧野城」と呼ばれましたが、武田氏が滅亡すると存在意義が薄れ、廃城となりました。


諏訪原城跡



諏訪原城跡からの展望 前方は島田市 蓬莱橋は右手奥



諏訪原城跡

現在は建築物は残っていませんが、甲州流築城術の特徴である丸馬出や三日月堀が残っており、枡形虎口などの遺構も残されています。

戦国時代の武田氏・徳川氏の築城様式を知る上でも貴重な城址で、国の史跡に指定されています。また付近には家康が諏訪原城を攻略するために築いた付城である火剣山砦跡もあります。



牧之原台地の茶畑



牧之原台地の茶畑


最後に牧之原台地のお茶畑を訪ねました。

牧之原台地のお茶畑は、牧之原市を中心に島田市・菊川市にまたがる日本一の製茶地帯で、標高40m〜200mの山肌に沿って幾重にも連なる茶畑です。

静岡県を代表する景観の一つになっています。

茶畑に歴史は意外と浅く、徳川慶喜の警護として駿府に移り住んでいた、中條景昭を中心とした「新番組」の武士たちが、明治時代になってその役を解かれ、生活のために一大決心をして刀を捨て荒れ地の開墾に励み、数年の歳月をかけて造りあげたとされています。


牧之原台地の茶畑



蓬莱橋


関連のホームページ


 島田市観光協会



    風来坊


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