散策スポット:東京23区

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目黒散策 (H28.6.3)


目黒駅前交差点 左右が目黒通り



大円寺

JR東日本駅からハイキングのイベント「目黒の不思議な地名の謎を解き明かそう!」に参加しました。

サブタイトルは「目黒区には珍しい地名、面白い由来のある地名が多く存在します。そんな地名を楽しみながら、ちょっとオシャレな目黒の街を歩きませんか。」です。


コースの概要は次のとおりです。(約12km)

目黒駅目黒不動尊(瀧泉寺)目黒寄生虫館十七が坂祐天寺油面地蔵通り目黒インテリアストリートカトリック碑文谷教会(サレジオ教会)碑文谷八幡宮すずめのお宿緑地公園柿の木坂自由が丘九品仏川緑道東京工業大学博物館東急電鉄大岡山駅

距離が長い上に坂道が多く、かなりハードなコースでした。所要時間約4時間15分、2万1千歩でした。


雅叙園



目黒川

目黒駅中央改札前で駅からハイキングの受付を済ませ、目黒通りを横切って左前方の坂道を下ると途中に大円寺があり、更に坂を下ると左手が雅叙園です。

そのまま進み「太鼓橋」を渡り、100mほど進んだ最初の信号を左折し、200mほど進むと「目黒不動」の交差点です。

交差点を渡って30mほど進んで右折し、緩やかな上り坂を300mほど進んだ「果王園」の手前を右折して100mほど進むと「目黒不動尊」です。



目黒不動尊



目黒不動尊


目黒不動尊(瀧泉寺)は、天台座主第三祖慈覚大師圓仁が開いた関東最古の不動霊場です。

寛永年間には、徳川家光の帰依を受け、堂塔伽藍が復興されました。

目黒で鷹狩りをした際、愛鷹が行方しれずになり、三代将軍は自ら目黒不動尊御宝前に額づき、祈願。すると忽ち鷹が本堂前の松樹(鷹居の松)に飛び帰りました。

この霊験を目の当りにした家光は瀧泉寺を篤く尊信することとなり、大願成就の報恩に、諸堂末寺等併せて53棟に及ぶ大伽藍を造立します。

歴代の将軍が折々に参詣する宏壮な堂塔は「目黒御殿」と称され、庶民も列を成して詣でる江戸随一の名所となりました。


目黒不動尊



目黒寄生虫館

青史に名をとどめる傑士が多く参堂し、さつまいもの栽培を広めた「甘藷先生」こと蘭学者・青木昆陽の墓があり、毎年10月28日には遺徳を偲ぶ「甘藷まつり」が開かれます。

二宮尊徳は報徳仕法の成功を祈誓し、西郷隆盛は主君島津斉彬公の当病平癒のために日参しました。東郷元師は日本海海戦の勝利を立願したとのことです。


目黒不動尊から北方向に300mほど進むと目黒通りです。目黒通りにぶつかった左手に「目黒寄生虫館」があります。

「目黒寄生虫館」は、医師・亀谷了が創設した寄生虫学専門の博物館です。

「寄生虫の多様性」や「人体にかかわる寄生虫」などをテーマに、約300点の標本や関連資料を展示しています。


大鳥神社



大鳥神社



大鳥神社

右折して目黒通りに沿って目黒駅方向に200mほど進むと「大鳥神社交差点」で、交差点の右手前が「大鳥神社」です。

「大鳥神社」は、言い伝えによると景行天皇の時代に当地に国常立尊を祀った社があり、日本武尊が東夷平定の折に当社に立ち寄って祈願しました。その後日本武尊の霊が白鳥として当地に舞い降り鳥明神として祀られ、大同元年(806年)に社殿が完成し、その年を大鳥神社では創建の年としており、目黒区最古の神社です。

現在の社殿は昭和37年(1962年)に完成したものです。



現代彫刻美術館


「大鳥神社交差点」で目黒通りを横切り、山手通りに沿って北方向に300mほど進んだ最初の交差点の手前(コンビニ・ファミリーマートの手前)を左折し、細い路地を200mほど進み、「志みず」の手前を右折すると、勾配の急な坂道になります。「十七が坂」です。

「十七が坂」は宿山地区と目黒不動尊を結ぶ急坂です。名前の由来は、坂道で子供が転ぶと17歳の時に不祥事が起きるという説や、中目黒の有力者17名の名が刻まれた庚申供養塔によるなど諸説があります。道中には庚申塚が点在しています。


現代彫刻美術館



現代彫刻美術館



現代彫刻美術館



現代彫刻美術館

「十七が坂」を400mほど進んだ右手が「長泉院付属 現代彫刻美術館」です。

「現代彫刻美術館」は、20世紀後半以降、日本の彫刻家を記録すると同時に、少しでも多くの方々に彫刻の素晴らしさに触れ、楽しんでいただけるようにとの願いから開館したものです。

彫刻は渡辺前館長が蒐集したものです。


本館のほかに、野外展示場があります。

野外展示場は、階段を利用したブロンズ庭園展示場と大きな石の門が印象的な石彫展示場など4つの野外展示場があります。

所蔵作品は、57作家、250点余りとのことです。


現代彫刻美術館



祐天寺



祐天寺

「現代彫刻美術館」から道なりに細い路地を500mほど進んだ信号のある交差点を左折し、200mほど進むと「祐天寺」です。

江戸中期の名僧・祐天上人の弟子が、師の遺命を受けて創建した浄土宗の寺院です。本堂や書院、地蔵堂などは国の登録有形文化財に指定されています。

境内墓地には大正天皇の生母・柳原愛子の墓もあります。



祐天寺


増上寺で学問を終えた祐天上人は、隠棲の草庵を本所牛島に結び、名号を書写し、念仏する生活をしていました。救いを求める人々は祐天上人に名号を請い、その功徳が江戸をはじめ広く日本中に弘まっていきました。

元禄12年(1699年)桂昌院の篤い帰依を受けた祐天上人は、綱吉の特別な台命によって、下総生実の大巌寺の住職となり、その後、家宣により、増上寺の第36世に任ぜられました。

将軍家はもとより、東山天皇の女院らの帰依を受けるなど、上人の書写した名号は現在でも護り本尊として人々から大切にされています。


祐天寺



中町せせらぎ緑地公園

祐天寺の東側の路地を500mほど南方向に進むと「油面地蔵通り」です。

江戸時代中期からこの辺りでは菜種が栽培され、菜種から作った油を増上寺や祐天寺に照明用として納めていました。油を納めていた代わりに租税を免じられたことから「油免」点じて「油面」になったと伝わっています。

住所としての地名はなくなっていますが、目黒区油免地区として行政サービスが行われ、目黒区立油面小学校や油面光園、油面交差点、油面地蔵通り商店街、油面交番などにその名を残しています。


油面地蔵通り商店街を抜けた油面交差点を右折すると「目黒通り」です。

この付近の目黒通りは「目黒インテリアストリート」と呼ばれています。

目黒通りを中心に、1950年代のアメリカ家具からアンティーク家具、北欧家具、オーダー家具など、個性的な店舗が軒を連ねています。

2007年には、目黒通りを中心に60店舗のインテリアショップ、30店舗のカフェ、レストランで、地域の活性化の目標を掲げて、目黒インテリアコミュニティ(MISC)が結成されています。


油面地蔵通り



カトリック碑文谷教会



カトリック碑文谷教会

目黒通りに沿って西方向に1.5kmほど進んだ「碑文谷交差点」を左折して、300mほど進んだ左手が「カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)」です。

カトリック碑文谷教会は、1954年に「江戸のサンタ・マリア聖堂」としてサレジオ会によって建立され、運営もサレジオ会に委託されています。

36m余りの鐘塔を備えたロマネスク様式の大聖堂で、色鮮やかなステンドグラスが施されています。

1708年に来日し、小石川キリシタン屋敷にて死去した宣教師シドッティ師が所有していた聖画「江戸のサンタ・マリア」のレプリカが掲げられています。



碑文谷八幡宮



碑文谷八幡宮


カトリック碑文谷教会から200mほど進んだ右手が「碑文谷八幡宮」です。

碑文谷八幡宮は、旧碑文谷村の鎮守で、応神天皇を祀っています。

創建年代は不詳ですが、鎌倉時代に源頼朝の家臣、畠山重忠の守護神をその家臣筋で当地に住んでいた宮野左近という人物が祀ったのが始まりと言われています。

現在の社殿は、延宝2年(1674年)に造営したものを、明治5年(1872年)に再建し、明治20年(1887年)に改築したものです。


碑文谷八幡宮



碑文谷八幡宮・碑文石

また神社には畠山重忠の家臣榛沢六郎という人物を祀った稲荷社と「碑文谷」の名の起こりともいわれている、碑文石が保存されています。

この碑文石は高さ75cm、横45cm、厚さ10cmで、付近を流れていた吞川に河床の石を材料にしています。

石には中央に大日如来、左に勢至菩薩、右に観音菩薩の梵字が刻まれており、室町時代の頃の作と言われている。

一説にはこの碑文を彫った石がある里(谷)ということから、当地の地名「碑文谷」が生まれたとも言われています。



すずめのお宿緑地公園



すずめのお宿緑地公園


「碑文谷八幡宮」の北西100mほどのところに「すずめのお宿緑地公園」があります。

この付近は昭和の初めまで目黒でも有数の竹林で、良いタケノコが採れました。竹林には無数の住みつき、朝早くいずこへともなく飛び立ち、夕方には群れをなして帰ってくることから、いつしか人々はここを「すずめのお宿」と呼ぶようになりました。


すずめのお宿緑地公園



すずめのお宿緑地公園

この土地の保有者・角田セイさんは、長年ここで一人暮らしをしていましたが「土地は自分の死後お国に返したい」といって大事にしておられたそうです。

角田セイさんの没後、目黒区が国からこれを借り受けて公園を造り、多くの人々の憩いの場として利用しています。

園内には古民家が移築復元されています。


「すずめのお宿緑地公園」から西方向に200mほど進んだ「平町1丁目交差点」を右折し、環七通りに沿って400mほど進んだ「柿の木坂陸橋交差点」を左折すると、目黒通りとなります。

「柿の木坂陸橋交差点」から東急東横線のガード下までは、緩やかな下り坂ですが「柿の木坂」と呼ばれています。この付近は、現在は緩やかな坂道ですが、かつては西側に大きく湾曲した急坂だったとのことです。


すずめのお宿緑地公園



すずめのお宿緑地公園

柿の木坂の由来には

〇 坂の近くに大きな柿の木があった
〇 柿の木がよく見える坂だった
〇 柿を運ぶ車から子供が柿を抜き盗んだ「柿抜き坂」が転じた
〇 人家が少なく暗くなると人々が駆け抜けて通った「駆け抜け坂」が転じた

などの諸説がありますが、次が有力とのことです。


当時の柿の木坂は周囲の農家や商人が大八車に荷物を載せて行き来するために使われ、急で長く続く坂を登るのは慣れていても大変な作業であった

。そのため、登坂中にはスリに荷物を盗まれることも多く、積荷を荷台から抜き取る行為が「引っ掻き抜く」と呼ばれていた。

それが転じて「掻き抜き坂」となり、明治の初め頃には「柿」が当て字として広く使われるようになり現在の地名の元となった。


都立大学駅前



都立大学駅前

東急東横線のガード下を左折し東横線の沿って進むと「都立大学駅」です。

「都立大学駅」から東横線の北側を線路に沿って1kmほど進み、丁字路を右折して50mほど進んだ十字路を左折すると自由が丘のメイン通りともいえる「自由通り」です。

「自由通り」を400mほど進むと「自由が丘駅」です。



自由通り



自由通り


自由が丘は東急東横線が開通するまでは竹やぶでしたが、鉄道開通後は急速に発展し、文化人や芸能人が住居を構えました。昭和8年(1933年)年に創業されたモンブラン(日本初の、モンブランを提供する洋菓子店)に文化人が集まったことで、「高級志向」の街といった認識をされるようになりました。

駅前ははじめ20軒ほどの商店街があるのみでしたが、第二次世界大戦後の復興にあたって駅前広場を設置し、昭和31年(1956年)には537軒もの店が構えられるようになり、昭和38年(1963年)には自由が丘商店街振興組合が設立されました。


マリクレール通り



マリクレール通り

昭和45年(1970年)頃には町の形がほぼ整いましたが、住宅街には木が多く、また、熊野神社に竹やぶの一部が残っています。

昭和49年(1974年)には九品仏川は暗渠化され、九品仏川緑道として整備されました。

平成12年(2000年)頃からは雑誌の取り上げられ方にも変化が見え、親しみやすさや庶民派というフレーズも見られる街となってきています。



マリクレール通り


九品仏川は世田谷区奥沢の浄真寺(九品仏)付近を水源として、東急東横線自由が丘駅南口付近を通り、その後、住宅地を進み、東急大井町線緑が丘駅~大岡山駅の中間付近(東京工業大学付近)で呑川に合流しています。

九品仏川緑道は昭和49年(1974年)に九品仏川を暗渠化してつくられた、道幅約13m、長さ約1657mの緑道です。自由が丘駅南側のマリクレール通りとは一部で並行しています。

中央に緑地帯があり両側には衣料品店などが立ち並ぶ、この地区では唯一の「大規模な遊歩道」です。

車両の通行は少なく歩行者の多い散策向けの街路です。


自由が丘



東京工業大学構内 富士山の見えるスポット 線路は大井町線と目黒線



東京工業大学

今回は自由が丘駅から緑が丘駅まで九品仏川緑道を歩き、緑が丘駅から東京工業大学の構内に入りました。

東京工業大学に入り東急線の線路に沿って坂道を登ったところに、東急線を横切る陸橋があります。この橋の上は富士山を眺めることのできるスポットのようですが、生憎この日は雲の中でした。



東京工業大学博物館


「東京工業大学博物館」は、昭和62年(1987年)、創立100周年を記念し、東京工業大学の業績を学内外に発信する拠点として設立しました。

地下と2階の常設展示室では、地球史からロボット研究コーナーまで幅広い展示を楽しむことができます。


東京工業大学博物館



大岡山駅前商店街



大岡山駅


東京工業大学正門前の東急線の大岡山駅が今回のゴールです。



           風来坊


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