散策スポット:東京23区

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大森散策 (H28.6.18)


ミルパ



大森駅南口

JR東日本駅からハイキングのイベント「大森の自然・歴史・街を散策しよう」に参加しました。

サブタイトルは「かつて海苔の一大産地として有名であった大森周辺の海辺と旧東海道の街並みを散策してみませんか」です。

コースの概要は次のとおりです。(約8km)

大森駅大森鷲神社チンチン電車の敷石磐井神社平和の森公園大森 海苔のふるさと館大森ふるさとの浜辺公園美原通り(旧東海道)善慶桂大森駅

約2時間30分、1万3千歩の散策でした。


大森駅東口を出て右方向に200mほど進んだ左手がミルパ「Milpa」です。

緑と黄色の色合いがカラフルなアーケードで、大森の「森」から商店街全体を「森」のイメージで統一しています。

アーケードの中を進んで行くと、いたる所にカラータイルが敷かれ、それぞれ大森にちなんだ絵柄になっています。

ミルパは、Mill parkの略語で、そぞろ歩く公園(または広場)という意味で、皆様にこの商店街を自由にのびのびと散策して頂きたいと言う意味が込められているとのことです。


ミルパ



大森鷲神社



大森鷲神社

アーケードを抜けて交差点を過ぎた左手が「大森鷲神社」です。

「大森鷲神社」は、日本武尊を祀り、江戸時代中期より、武運・開運・商売繁盛の神として信仰を集めています。

11月の酉の日には祭礼が行われ、五穀豊穣の恵みと財宝をもたらす熊手を求める人々で賑わうとのことです。


「大森鷲神社」の手前を左折し、200mほど進んだ信号を右折して200mほど進むと右手がイトーヨーカドーです。イトーヨーカドーの手前に「チンチン電車の敷石」があります。

大森駅から大森海岸までは、明治34年(1901年)から昭和12年(1937年)まで京浜急行電鉄の前身である京浜電気鉄道のチンチン電車が走っていました。

平成3年〜4年にその路線跡を、シンボル道路として整備した際に、地下から出てきた線路の敷石が展示されています。


チンチン電車の敷石




磐井神社



磐井神社

「チンチン電車の敷石」からイトーヨーカドーを右手に見ながら300mほど進むと京浜急行の「大森海岸駅」です。

「大森海岸駅」のすぐ先の交差点を右折すると第一京浜国道です。第一京浜国道に沿って200mほど進んだ右手が「磐井神社」です。


「磐井神社」は平安時代に編集された法令集「延喜式」にも記載されている古社です。昭和20年に戦火に遭い、昭和29年に再建されました。


品川区にある6社とともに「東海七福神」に数えられ、弁財天が祀られています。

神社前の歩道には、かつて東海道を往来する旅人が利用した「磐井の井戸」があり、水を飲むと「心正しければ清水、邪心があれば塩水」という言い伝えがあります。

東海道拡幅工事の際に境内が縮小されたため、井戸だけが昔の位置のまま残っています。

井戸の位置は境内の外になります。


磐井の井戸



平和の森公園



平和の森公園

「磐井神社」から300mほど進んだ「平和島口」の交差点を左折し、100mほど進んだ右手が「平和の森公園」です。

「平和の森公園」は、環状7号線を挟んで南北に広がり、面積は10万4千平方メートルで、大田区内最大級の公園です。


園内には、区内の貴重な文化財や史跡を模した45ポイントで結んだフィールドアスレチックコース、テニスコート、弓道場、アーチェリー場等の有料のスポーツ施設があります。

また、大田区の花である梅や桜、アジサイなど、いろいろな種類の木々を配した樹林、釣りの楽しめる「ひょうたん池 」、家族や友達で利用できる「平和の広場」などが設けられており、子どもからお年寄りまで楽しめる公園です。


平和の森公園



平和の森公園



平和の森公園



平和の森公園

なかでもお勧めは南側に有る有料アスレチックです。

ここは公式のコースで45カ所の難易度の高い設備があり、運動不足の大人は子供と一緒に廻るにはかなり辛いコースとのことです。

ファミリーでスポーツを楽しむにはお勧めですが、小学生以上でないと入れないので、未修学の子供のいるファミリーは、隣接する幼児用アスレチックで楽しむことになります。



大森 海苔のふるさと館



大森 海苔のふるさと館


「平和の森公園」を一番南まで進むと左手に「大森 海苔のふるさと館」があります。

大森地域の海苔づくりは、日本全国に先駆けて、今から300年ほど前の、江戸時代の享保年間(1716〜1735年)の頃に始まったといわれています。

品川から大森周辺の海辺に「ひび」とよばれる粗朶木(そだぎ)を建て、その枝に育つ海苔を摘み取りました。特に浅瀬の広がる大森周辺は大きな産地として発展し、江戸時代の終わり頃、ここから海苔づくりは各地へと伝わりはじめました。


大森 海苔のふるさと館



大森 海苔のふるさと館



大森 海苔のふるさと館



大森 海苔のふるさと館

明治以降は、各地で海苔づくりが行われるようになりましたが、大田区沿岸の海苔は質、量共に全国に誇り「本場乾海苔(ほしのり)」と称賛されていました。

しかしながら、東京都沿岸部の埋め立て計画に応じるため、昭和37年(1962年)12月に生産中止を決定し、昭和38年春にその歴史に幕を閉じました。

しかし、江戸時代から培われてきた伝統は、生産が途絶えても海苔の流通業の中に生きており、大森周辺は海苔問屋が多く、現在も海苔流通網の重要な拠点の一つとなっています。


大森海苔のふるさと館は、同地域の誇りでもあった海苔づくりの歴史と文化を次世代に伝えることを目的として造られ、海苔づくりを可能にしてきた海辺の自然を学び、その歴史や文化の継承を目的とする指導や講演などを通じて、ふるさとの浜辺などを活用した自然環境教育を進めています。


大森 海苔のふるさと館



大森 海苔のふるさと館からの展望



大森 海苔のふるさと館からの展望



大森 海苔のふるさと館からの展望

1階の展示室には、国の重要文化財に指定されている昭和30年代に造船された最後の海苔船、全長13メートルの「伊藤丸」や、小型の海苔採り舟「ベカブネ」が展示されています。

また、乾海苔作りの作業部屋「海苔付け場」の再現展示があります。


2階展示室では海苔の歴史・文化を紹介しています。

「海苔の歴史と科学」、「海苔つくりの一年」、大田区沿岸における海苔産業の歴史をドラマ仕立てで解説する「大田海苔劇場」、海苔を養殖するひびを建てるため海苔下駄を履いて振り棒で海底に穴をあける体験ができる「海苔下駄体験コーナー」、「企画展示コーナー」などのコーナーがあります。


大森 海苔のふるさと館 3階テラス



浜辺橋



大森ふるさとの浜辺公園



浜辺橋からの展望 京浜運河

3階の展望休憩コーナーからは、「大森ふるさとの浜辺公園」の白い砂浜を見渡すことができます。

ここでは飲食ができる休憩室となっています。

「大森 海苔のふるさと館」から南の方に進み、「浜辺橋」を渡ると「大森ふるさとの浜辺公園」です。



大森ふるさとの浜辺公園



大森ふるさとの浜辺公園


「大森ふるさとの浜辺公園」は、かつての大森海岸を再現し、入り江や干潟もある、都内初の区立海浜公園です。

磯遊びや水遊びなど、都内では数少ない自然に触れることのできるスポットです。


大森ふるさとの浜辺公園



大森ふるさとの浜辺公園

「大森ふるさとの浜辺公園」の南端付近でUターンし、公園の最上部を北西方向に進み、公園を出てから道なりに北西方向に500mほど進むと旧東海道の「美原通り」です。

「美原通り」は、ほとんどが第一京浜国道として拡販改修されている旧東海道のなかで、比較的往時の復員を留めている通りです。



大森ふるさとの浜辺公園


大森ふるさとの浜辺公園



美原通り



美原通り



美原通り


美原通り


景観整備事業の一環として、店舗は江戸情緒を感じさせるデザインで統一されており、江戸時代から旅人をもてなしてきたあべ川餅などの老舗も残っています。

また海苔の専門店も何軒かあります。


美原通り



美原通り



美原通り


美原通り



美原通り

「美原通り」が第一京浜国道と合流する少し手前を左折し、「大森スポーツセンター前」の信号で第一京浜国道を横切って、幅員の狭い道路を1kmほど進むと東海道線の踏切です。

踏切を横切って100mほど進んだ左右の道路が「池上通り」です。

「池上通り」を横切って、さらに真っ直ぐ200mほど進むと「善慶寺」です。



善慶寺


「善慶寺」は、正応5年(1292年)の建立で、以来700年を超えて連綿と法灯が継承されている日蓮宗の寺院です。

善慶寺が一般に知られているようになったのは延宝5年(1677年)に起きた義民六人衆事件との深い関わりによるものです。


善慶寺



善卿寺:宿義民六人衆の墓



善卿寺:宿義民六人衆の碑

江戸時代の荏原郡新井宿村は、家康の関東入府から幕末に至るまで、旗本木原氏の知行地でした。

4代兵三郎重弘の時代、延宝元年(1673年)の干ばつ、翌年の多摩川氾濫などによる洪水や長雨などの天災で農民の困窮は甚だしく、過酷な年貢収奪に、耐えかねた村民は、19箇条の訴状を提出して年貢の減免を願い出ました。

この訴えは黙殺されたため、重立ち百姓6人は、将軍家綱に起訴しようとしましたが、決行直前の延宝5年(1677年)正月2日密告により捕らえられ、神田橋門外にあった木原内匠邸で処刑されたといわれています。しかしその結果、年貢は半減されたとのことです。


新井宿義民六人衆による起訴事件は、村人の中に語り継がれ、延宝7年(1679年)義民と縁故筋にあたる間宮藤八郎が、両親の墓を建てると称して六人の法号を刻んで密かに建立したのがこの墓石です。正面に父母の、裏面に六人の法名が刻み込まれております。

道路拡張のため埋葬位置をずらす必要があり、昭和47年に現在の場所に移されました。


現在の墓の正面は、実は裏面にあったものです。昭和6年(1931年)に墓地が東京府指定の史跡となり、墓地整理にともなってそれまで後を向いていた面を正面に出したのです。


熊野神社



「善慶寺」から池上通りに戻り、北方向に700mほど進むと大森駅です。



          
           風来坊


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